大魔神カノン 第17話 感想
関東では既に19話放送済みって事で、2週遅れの感想ですが、まぁ大目に見てやってくだされ・・・・(^^;

て事で前回の続きですが、今回は中々重いと言うか、ちょっと後味の悪い話。

前回の感想でも少し触れましたが、今回はゲストキャラのくららとその母親の親子関係が大きなポイントで、そういう意味では(偶然とは言え)少し前の「仮面ライダーW」と、若干テーマが被ってるんですが、その結末というのがね・・・

カノンがこの親子に対して行った事は本当に正しかったのか?
正論が常に人を救うとは限らないのじゃないか?

誰かのために、何かをするというのは、どういう事なのか?・・・・・

と、色々な事を考えさせるエピソードでした。

では、本題。



くららが“あんな行動”に出たのは、あの猛烈ママの束縛に対する反発というのが一番の理由だった模様。

カノンにとって辛い曲な筈の“TO THE TOP”のメロディを、優しく、心地良く、自然に心に入ってくるように奏でるくららの楽しそうな姿に、彼女の音楽に対する純粋な思いと、本当はやりたくないクラシックを母親に強要され、生活も行動も全てその支配下に置かれる事で、大好きな筈の音楽が、彼女自身を苦しめている事を知ったカノン。

くららの中に、サキとは違った意味でもうひとりの自分を見たカノンは、母親の束縛という籠から解放すると同時に、母親にもくららが本当にやりたい音楽を理解してもらい、ひとりの人間として接してもらえるようにと、画策を試みするのですが、この母親というのが、まぁ、とことん一筋縄にはいかない人で・・・・(^^;

自分の娘を、その人格や意志までも否定し、強制的に自分の思うままに教育しようとし、聞き分けがなければ張り倒す事も厭わない。
それも、我が子の事を思っての“叱咤”というものではなく、明らかに自分の怒りや苛立ちをぶつけた、単なる“暴力”という印象しか受けないもの。

その傲慢さはくららだけにとどまらず、くららが万引き騒ぎを起こしたスーパーの店員や、くららに手を差し伸べようとするカノン達を始めとした、自らを否定するもの全てに向けられ、決して非を認めず、他者に責任を転嫁し、強引に押し切ろうとする・・・

まぁ、いわゆる“モンスターペアレント”に類する親な訳ですが、奇しくも同じ時期に、同様のテーマが「仮面ライダーW」でも扱われてましたが、そちらは“憎しみもまた愛のカタチのひとつ”という、実に濃厚な“長谷川圭一節”が醸されつつも、ヒーロー物らしい落としどころに纏まっていたのに対し、こちらの母親は、それすら奇麗事に思えるほど、その心は頑で抑圧的。

この辺り、敢えて対比して考察すると、「W」においてのモンペア母やシュラウドの憎しみは、あくまでも敵対者側に向けられていて、我が子に対する深い愛情が行き過ぎた結果のものだったのに対し、「カノン」のくららの母親の場合、くららを利用してまでも離婚した元夫を見返そうとする、言わば復讐心から生まれる憎しみが、その対象としてくららにすらも向けられてる側面があるところ。

そして、このくらら親子と対比的に描かれるのが、イパダダである冴木賢人の過去・・・

冴木の母親も、幼い子供の頃の彼を、英才教育ではあったのだろうけど、まるで人格や個性を無視するかのように、常に抑圧的に、悪鬼のような表情で怒りとばして強引に机に向かわせ続けた結果、その追い詰められた小さな心は、母親も含めた世の中全てから日常的に“怯える”事となり、それがいつしか他者に対する深い憎しみに変わって行った結果が、母親殺しを切っ掛けに生まれた殺人鬼“冴木賢人”であり、その憎悪に満ちた魂が悪霊化したのが、今まさにオンバケ達が戦っている、近年稀に見る凶暴なイパダダ・・・

激闘の中、一度イパダダが身体に入った事で、冴木の心の中を垣間見たカエンジは、自らもが怯えてしまうほど、その闇の深さを知らされる事になるのですが、くららと母親の関係も、突き詰めて行けば冴木とその母親の関係に近しいものがあり、ひとつ間違えれば冴木の親子のようになりかねない事を暗示してるのでしょう。

ただ、くららの母親も、離婚前までは普通の優しい母親だったらしいという辺り、根底の部分では本当はくららを愛していて、その愛情が歪んでしまった結果が今のカタチである可能性もあるけれど、母親の真意がどこにあるかを推測きる描写も無かったように思え、どうにも釈然としないものが残ってしまうんですよね。

あと、結構見落としがちなのが、くららの為に奔走しようとするカノンに対し、例の“オヤジの突っ込み”を入れるばろく父ちゃんと言うのも、実はもうひとつの“親子のカタチ”として、くららと母親に対する対比になってるんですね。

父ちゃんが言ったように、他人に関わるには相応の覚悟や責任が必要で、中途半端に関わる事は却って話を拗らせる事にもなるだろうし、事実今回の場合は、カノンが起こした行動が逆に母親の心を硬化させ、結果くららを海外へ連れ出す時期を早めてしまったとも言えます。

結局、父ちゃんの危惧した通りの結果となり、カノンは自分の非力さを思い知らされ、また落ち込んじゃう事になるのですが、親としてカノンの性格を把握しているばろく父ちゃんは、案外こうなる事を最初から分かっていて、余計な事でわが娘が傷つかないための、気遣いとしての口出しだったのでしょう、多分。

何かと言えばいちいち絡んでくる、娘にとっては少々ウザイ父ちゃんだけど、それもこれも皆娘の事を思っての事。
くららに対する母親の行動も(くららの事を)心配してるからだよという言葉が出るのも、カノンもその父ちゃんの愛情を、本当はちゃんと分かってるからなのでしょう。

それ故に、カノンの思いとは裏腹な結果になってしまった事が、余計に切ない訳で・・・

結局くららは、余計な情報や誘惑から遮断され、クラシックを叩き込むために海外へ、ほぼ強引に連れて行かれてしまう事になったのですが、ここでもひとつポイントがあります。

カノンがタイヘイ達と共に、母親の説得を試みていた時点では、くらら自身も本当に自分のやりたい音楽はクラシックではないと言う、自分の本心を母親に伝えようとしていたのに、結局は母親に従い、海外へ行く道を選ぶんですよね。
それも多分、自分の意志で・・・・

それは、未成年の(てか、まだ児童だもんね(^^;)身で親に従わずに生きて行ける筈がないという母親の言い分ももっともだけど、そんな母親でも、くららにとっては自分の親である事には変わりはないし、ばろく父ちゃんの言った“親子の繋がりは深い”というのは、まさにその事を差していて、決して断ち切る事はできないんですよね。

くららが、泣きながらショパンの“別れの歌”を奏でるイメージシーンは、そういう逃れられない呪縛を受け入れられなければならない自分の運命に対してなのか、或いはそんな母親でも心の底では本当は愛している事の証しなのか・・・・

結局このエピソードは、カノンが自分の無力さや中途半端さを思い知っただけで、くららに対してはなんの救いもない結果になってしまったような、なんとも後味の悪いものではありましたが、この辺りは敢えてドラマ的な安易な大団円に落とさない事で、受け手側に“色々と考えさせる”という意図があったのかも知れません。

高寺作品って、特にこういうコアなテーマに対しては、意外と奇麗事的なものを持ち込まないんですよね(そういう意味では、むしろ白倉作品の方が奇麗に纏めてる)
そうであるからこそ、「クウガ」で五代が訴えた「奇麗事がいいんだもん」が、生きてくるんですよ。

この先、このくららの物語には何かしらの決着を望みたいのは勿論ですが、この件を越えた後のカノンが、この先自分自身に、いのりうたに、どう向き合って行くのか・・・・

今後はそこが焦点になって行くんでしょうね。


大魔神カノン DVD通常版 第8巻

角川映画


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by yaskazu | 2010-08-14 21:47 | 特撮 | Trackback | Comments(0)
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